Artscene 芸術の風景 -アートシーン 展覧会情報

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岸田吟香・劉生・麗子 知られざる精神の系譜

artscene2014-02-26


2014年2月8日−4月6日 1階展示室


世田谷美術館

〒157-0075世田谷区砧公園1-2
電話:03-3415-6011

http://www.setagayaartmuseum.or.jp




■電車とバスで来館の方
(1)東急田園都市線「用賀」駅
美術館行バス「美術館」下車 徒歩3分

「用賀」駅より徒歩17分


(2)小田急線「成城学園前」駅
渋谷駅行バス「砧町」下車 徒歩10分


(3)小田急線「千歳船橋」駅
田園調布駅行バス「美術館入口」下車 徒歩5分


(4)東横線「田園調布」駅
千歳船橋行バス「美術館入口」下車 徒歩5分




岸田劉生童女図(麗子立像)》 1923(大正12)年4月15日
神奈川県立近代美術館





─時代を超えて個を貫いた親子三代の物語

愛娘をモデルとした〈麗子像〉の連作で広く世に知られている画家・岸田劉生は、独自の美を求めて葛藤を重ねた大正洋画壇の巨星でした。その劉生には、傑物ともいうべき父がいました。その名は吟香。激動の幕末・維新期に、洋の東西を遠く見すえた開明派の文化人として、各方面で活躍しました。また、劉生が38歳で早世したのち、長女・麗子は演劇人・画家としての生涯を生き、最晩年には詳細にわたる父・劉生の評伝を書き上げました。
 本展では、吟香にまつわる稀少資料や、吟香と交流のあった同時代人の作品に加え、劉生の代表作〈麗子像〉やそのモデルとなった麗子の遺作などを一堂に集めて、それぞれの個を貫きとおしたこの稀有なる親子三代の物語をたどります。独りわが道をゆくことを恐れなかった生き方は、明治・大正・昭和を通して、吟香・劉生・麗子に等しく見られる資質です。本展の目的は、時代を超えたこの知られざる精神の系譜を、日本近代史に照らして探るところにあります。


会期: 2014年2月8日(土)−4月6日(日)
開館時間: 10:00−18:00(最終入場は17:30)
休館日: 毎週月曜日
*本展では前期(〜3月9日)・後期(3月11日〜)で一部作品の展示替があります。
会場: 世田谷美術館 1階展示室
観覧料: 一般1200(1000)円、65歳以上1000(800)円、大高生800(600)円、中小生500(300)円 
*( )内は20名以上の団体料金
*障害者の方は500円(介助の方1名までは無料)、大高中小生の障害者の方は無料
主催: 世田谷美術館(公益財団法人せたがや文化財団)、毎日新聞社
後援: 世田谷区、世田谷区教育委員会
協賛: 三菱商事


岸田吟香・劉生・麗子展 出品作品資料目録は、こちらです。


講演会「劉生再考:今、その存在の意味を改めて考えてみる」 
2月22日(土)14:00〜15:30
講師:田中淳東京文化財研究所企画情報部長)

対談「吟香とは、いったい何者だったのか」 
3月8日(土)14:00〜15:30
話者:鍵岡正謹(岡山県立美術館館長)、酒井忠康世田谷美術館館長)

100円ワークショップ
展覧会会期中の毎土曜日
13:00〜15:00(時間中随時受付)



人物紹介&展示構成
岸田吟香(きしだ ぎんこう)
1833(天保4)〜1905(明治38)年
美作国(みまさかのくに)(現・岡山県)に生まれた吟香は、津山や江戸そして大阪で儒学や漢学を学んだのち、眼病治療のために医師ヘボンを訪ねたことをきっかけとして、日本初の本格的な和英辞書である『和英語林集成』の編集に携わりました。また、『海外新聞』などの民間新聞を発行。そして後年には、『東京日日新聞』(毎日新聞の前身)の主筆として日報社に迎えられ、内国勧業博覧会に際して日本初の美術批評を連載したり、台湾出兵に日本初の従軍記者として同行したりするなど、ジャーナリストとして幅広く活躍しました。その一方で実業家として、液体目薬「精�瀉水(せいきすい)」の販売、東京・横浜間の蒸気船定期航路の運行、訓盲院(盲学校)の設立など数々の事業も手がけました。享年72。




中島待乳《岸田吟香肖像写真》、明治初期、
鶏卵紙、5.7×9.0cm、日本カメラ博物館蔵

岸田劉生(きしだ りゅうせい)
1891(明治24)〜1929(昭和4)年
東京・銀座にて吟香の四男として生まれた劉生は、17歳のとき白馬会の洋画研究所に入り黒田清輝に師事。1911年には『白樺』の同人たちに出会って親交を結び、翌12年、高村光太郎らとヒュウザン会を発起しました。この頃より本格的に画家としての道を歩きはじめます。その後、ゴッホセザンヌ後期印象派の影響を脱して、デューラーら北方ルネサンスの画風にならった細密な写実による作画に没頭。画友を得てこの時期、草土社を結成。さらに鵠沼にて30歳になる直前から日本画も描きはじめ、「東洋の美」へ急傾斜してゆきます。
 次々と独自の画境を切り拓いていった果敢な生涯は、1929年、満州への初の国外旅行からの帰路、山口で客死したため突如閉ざされました。享年38。




中国服を着た劉生、29歳、1920(大正9)年11月8日

岸田麗子(きしだ れいこ)
1914(大正3) 〜 1962(昭和37)年
東京・代々木にて劉生の長女として生まれた麗子は、劉生の代表作〈麗子像〉連作のモデルとして広く知られるようになりましたが、劉生没後の麗子自身の足跡を知る人は決して多くありません。父の教えを糧に、麗子もまた長じてのち絵を描き、画家として生涯にわたり精力的に制作と発表を繰り返しました。また、私淑した父の旧友・武者小路実篤による「新しき村」の運動にも参加して、演劇人としても数々の舞台に立っています。戯曲や小説や随筆など、執筆活動にも才能を発揮。大戦を挟んだ激動の昭和期に、三児の母でありつつ多彩な創作活動を展開した麗子もまた、父・劉生に同じく独自の信念を貫く求道の徒であったといえるでしょう。評伝『父岸田劉生』を書き上げた直後に急逝。享年48。




麗子、9歳、鵠沼にて、1923(大正12)年4月

第一部:幕末・維新の先覚者、岸田吟香
美作国(現・岡山県)の山間の地に生まれた吟香は、津山・江戸・大阪に出て学問修行に励みましたが、幕末の動乱期には思想上の嫌疑をかけられ市井の一隅に身を潜めるなど、波乱万丈の青年期を過ごしました。やがてローマ字を考案した医師・ヘボンに出会い、和英辞書編纂の手伝いや新聞の発行、上海への初渡航や新航路開発の計画など、にわかに活動の幅を大きく拡げてゆきます。その後、さまざまな事業を興しつつ維新を迎え、40歳のときには『東京日日新聞』(毎日新聞の前身)の主筆となって人気を博しました。
幕末より手がけてきた液体目薬「精�瀉水」の製造販売に本格的に乗り出したのも、この頃のことです。東京・銀座に薬舗「楽善堂(らくぜんどう)」を構え、そこを拠点に事業家、出版人、思想家、文筆家として八面六臂の活躍を見せ、明治という新時代の建設に大きく貢献しました。盲学校を設立したのもその功績のひとつです。しかし 日露戦争のただなか、病に倒れて72年の生涯を閉じました。




小林清親《桃花散・百発百中膏・精�瀉水》(楽善堂の引札)、
制作年不詳、木版・紙、35.0×23.0cm、
内藤記念くすり博物館蔵


劉生《生家の図(楽善堂)》、1927(昭和2)年、墨・紙、14.7×19.7cm、茨城県近代美術館蔵 *展示替あり

第二部:父親ゆずりの反骨の士、岸田劉生
東京・銀座の煉瓦街で大きな薬舗「楽善堂」を営んでいた父・吟香のもと、14人兄弟姉妹の第9子として生まれた劉生は、21歳になるまでの青年期をそこで過ごしました。銀座生まれ・銀座育ちの都会っ子だったのです。その後、結婚を機に都心を離れ、代々木・駒沢・鵠沼へと居を移して、画家としての成熟期を迎えます。「内なる美」を求めて写実を極めんとし、次々と〈麗子像〉を描き重ね、やがて「東洋の美」へと大きく傾斜してゆきました。震災を機に移り住んだ京都では、宋元の絵画や浮世絵など古美術に魅せられつつ、自身は南画風の日本画を多数描いています。若くして官展からは遠のき、旧来の芸術には背を向けて、大正期の特色を示す「個の表現」を求め、また、多くの独創的な芸術論をしたためました。そして最晩年には洋画という枠すら飛び越えてしまった劉生は、まさに破格の画家であったといえるでしょう。初の海外渡航となった満州からの帰路、山口の地で客死し、毀誉褒貶の激しかった生涯を38歳の若さで閉じました。




劉生《麗子坐像》、1919(大正8)年8月23日、油彩・画布、72.7×60.7cm、ポーラ美術館蔵


劉生《静物(湯呑と茶碗と林檎三つ)》、1917(大正6)年8月31日、油彩・画布、38.0×45.5cm、大阪新美術館建設準備室蔵

第三部:劉生没後の岸田麗子、表現者としての生涯
父・劉生が代々木へ居を移してまもなくのこと、麗子は誕生しました。溢れんばかりの愛情を受けて成長した麗子は、鵠沼の地で4歳のときから、以後10年あまり、父のためにモデルを務めました。単にモデルというにとどまらず、麗子は劉生にとってのミューズ、芸術創造の源泉となったのです。その父が1929年に急逝したとき、麗子はいまだ15歳の少女でした。しかし、絵を描きはじめるとともに、父の旧友であった武者小路実篤に私淑し、「新しき村」の演劇部に入って役者として舞台に立つようにもなりました。その後、家庭を持ち、三児の母となってのちも、そこにはつねに演劇や絵画、戯曲や小説などを作り出す表現者としての日々がありました。父が遺した膨大な量の日記を精読し、それをもとに魅力溢れる評伝を書き上げたのち、麗子は急逝、48年の生涯を閉じました。




麗子《1923年8月の思出》、1958(昭和33)年6月11日、
油彩・画布、53.0×45.5cm、個人蔵