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舟越保武 やさしさ、静けさ、そして強さ  彫刻家・舟越保武の世界

2a6adeb2.bmp 「聖ベロニカ」


 本日、20時、NHK 教育テレビ Eテレ 「アートシーン」にて放映。

 *舟越保武 やさしさ、静けさ、そして強さ  彫刻家・舟越保武の世界

 
 末盛千枝子(舟越保武 長女)
 
 舟越桂(彫刻家・舟越保武 次男)

 中村光紀(萬鉄五郎記念美術館館長)






 舟越 保武(ふなこし やすたけ、1912年12月7日 - 2002年2月5日)

 
 1912年、岩手県二戸郡一戸町小鳥谷生まれ。父がカトリック信者だったことから影響を受け、後に自身も信徒となる。県立盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)在学中(同期に松本俊介がいる)に高村光太郎訳の「ロダンの言葉」に感銘を受け、彫刻家を志した。



 佐藤忠良と共に戦後日本を代表する彫刻家である。新制作協会彫刻部創立会員で、東京藝術大学名誉教授を零人した。文化学院を出ている画家の妻、道子との間に子供が6人。次男の舟越桂や三男の舟越直木も彫刻家として活躍している。

 
 
 1939年 東京美術学校(後の東京藝術大学)彫刻科を卒業。このとき出会った佐藤忠良とは終生の友となった。卒業後、独学で石彫をはじめ、数々の作品を発表して注目される。1950年、長男が生まれて間もなく急死したのを機に、父と同じカトリックにて、自らも洗礼を受けて信徒になり、以降、キリスト教信仰やキリシタンの受難を題材とした制作が増える。中でも、1962年 「長崎26殉教者記念像」で高村光太郎賞を受賞した作品は良く知られている。



 1967年から1980年の間、東京芸術大学教授を勤める。その後、多摩美術大学教授を勤めた。1986年、東京芸術大学名誉教授に。1987年、脳梗塞で倒れ、右半身が不自由になったが、すぐにリハビリを開始。死の直前まで左手で創作を続けた。2002年2月5日、多機能不全で死去。89歳だった。



主な作品と受賞歴

1962年 「長崎26殉教者記念像」で高村光太郎賞。
1972年 島原の乱に着想を得た「原の城」で中原悌二郎賞
1973年 「原の城」でパウロ6世より大聖グレゴリオ騎士団長勲章受章。
1975年 「病醜のダミアン」(ダミアン神父をモデルにした作品。)
1977年 「道東の四季−春−」(釧路市の幣舞橋)で長谷川仁記念賞。
1978年 芸術選奨文部大臣賞

1983年 エッセイ『巨岩と花びら』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。
1984年 勲四等旭日小綬章受章
1999年 文化功労者顕彰。
2002年 叙・従四位、賜・銀杯一組


他、「聖ベロニカ」、「聖クララ」、「たつ子像」(田沢湖畔に設置)、「ペトロ岐部神父の立像」などがある。




 東北が生んだ戦後日本を代表する彫刻家、舟越保武(1912−2002)。
 キリスト教を題材にした「長崎26殉教者記念像」や静ひつで気品ある女性像など精神性の高い作品で知られています。


 舟越の作品は、表面的な美しさだけにとどまりません。人生においてさまざまな苦難と向き合ってきた舟越の作品の数々は「やさしさ」を持ちながら「静かな強さ」を秘めています。
舟越は長男をわずか生後8か月で亡くしことをきっかけに一家でクリスチャンになりました。以降、キリスト教を題材にした傑作を生みだします。そこには、辛い運命を懸命に生き抜いた人たちへの深い愛情といたわりが込められています。


 精力的に作品を生み出していた75歳の時、舟越を病魔が襲います。脳梗塞で倒れ、右半身の自由と視覚の一部を失ってしまったのです。それでも、舟越は彫刻への情熱を失わず、左手だけで作品を刻み続けました。新たに左手だけで制作した作品はこれまでとは異なる粗削りな造形の中に、舟越の彫刻への深い気迫が感じられます。
震災で非常に困難な状況と直面せざるを得なくなった人々は今、舟越の彫刻に何を感じ、何を読みとるのでしょうか?舟越の人生の軌跡をたどりながら、彼が作品に込めた思い、追い求めた美とは何かを探ります。





主な彫刻作品の設置場所

「リンゴをもつ少年」 1965年 神戸市中央区海岸通6・「エスタシオン・デ・神戸」屋外
「アンナ」 1969年 神戸市中央区海岸通6・「エスタシオン・デ・神戸」屋外
「LOLA」 1980年 神戸市中央区加納町6・神戸市庁舎1号館屋内
「シオン」 1981年 神戸市中央区加納町6・県道30号線(フラワーロード)西側
 


舟越保武彫刻写真館

http://joshua007.digi2.jp/funakosi.htm



1912年 岩手県一戸町に生まれる

1934年 東京美術学校彫刻家塑像部に入学
1939年 同校卒業、新制作派協会彫刻部設立に参加
1941年 松本竣介と二人展開催(盛岡市
1950年 盛岡カトリック教会で洗礼を受ける
1962年 「長崎26殉教者記念像」で第5回高村光太郎賞受賞
1967年 東京芸術大学教授となる
1972年 「原の城」により第3回中原悌二郎賞受賞
      同作品をローマ法王庁に寄贈


1973年 ローマ法王庁より大聖グレゴリオ騎士団長勲章受章
1978年 芸術選奨文部大臣賞受賞
1987年 脳血栓で倒れる。以後左手で制作を続ける
2002年 逝去