Artscene 芸術の風景 -アートシーン 展覧会情報

芸術、美術、展覧会の紹介をしています。

フランス印象派の陶磁器 1866-1886 ―ジャポニスムの成熟

artscene2014-03-25




2014年4月5日(土)〜 6月22日(日)

午前10時より午後6時まで(ご入館は午後5時30分まで)

休館日 毎週水曜日

入館料
一般:800円 大学生:600円 中・高校生:200円 小学生以下:無料
65歳以上の方:700円 (年齢のわかるものをご提示ください)


障がい者手帳をご提示の方、および付添者1名まで:無料

主催
パナソニック 汐留ミュージアム朝日新聞社


後援
在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本、港区教育委員会

協力
エールフランス航空


企画協力
アートインプレッション
日本にあこがれた19世紀パリの芸術を陶磁器など合計155点で展観


1874年4月、近代絵画史上最も画期的と見なされるグループ展、第1回印象派展がパリで開催されました。その出品作品のひとつであるモネの《印象、日の出》は、刻々と変化する水面の煌めきなどありのままの自然の情景が、大胆な筆致でキャンヴァスに表現されていました。当時のフランスのアカデミック美術は、忠実な模写を標榜していましたが、この絵画は精細さを欠いているとして多くの批判を浴び、このグループは皮肉をこめて「印象派」と名づけられました。同じ頃、陶芸の世界においても新しい技術やジャポニスムからの発想を生かすなど、近代性を取り入れた革新的な陶磁器が作られていました。


第1回印象派展の出品画家で銅版画家のフェリックス・ブラックモンも、日本美術の影響を受けた一人です。彼は、リモージュ磁器で知られるアビランド社の経営者で、日本美術の蒐集でも知られるシャルル・アビランドと出会い、同社の美術監督として迎え入れられると、ジャポニスムのモチーフなどを生かした伝統に捉われないデザインで才能を発揮しました。1880年代初頭には焼締陶器や銅紅釉を使用するなど新しい素材への挑戦を続け、アビランド社はフランスを代表する陶磁器メーカーとして発展しました。 そして、第1回印象派展から100年を経た1974年、「セラミック・インプレッショニスト(Céramique Impressionniste)」という展覧会がパリで開催されました。ここでは印象派絵画のような筆致で装飾された陶磁器と印象派絵画の関連が改めて注目を浴び、作品群は「印象派の陶磁器」と称され、その芸術性の高さが認知されることとなりました。


本展は、アビランド家コレクションを中心に、印象派時代の陶磁器を日本で系統的にご紹介する初めての機会です。印象派スタイルの絵付けをした陶磁器をはじめとして、19世紀後半のフランスが憧れた東洋や日本の美術が色濃く反映されたテーブルウエアや陶芸作品に加え、モネやルノワールといった印象派の絵画も展示いたします。



第1部 テーブルウエアの大革命!
―フェリックス・ブラックモンの《ルソー》シリーズとジュール・ヴィエイヤール工房


《「ルソー」シリーズ 雄鶏に熊蜂(くまんばち)図皿》 クレイユ・エ・モントロー陶器工場 フェリックス・ブラックモン 1867年、 Y. &L. ダルビス蔵
《ルソー》シリーズは、フランス陶器における最初のジャポニスムの作品です。パリで食器製造販売業を営んでいたフランソワ=ウジェーヌ・ルソーは、1866年に銅版画家のフェリックス・ブラックモンにディナーセットの装飾デザインを依頼しました。それは《ルソー》シリーズと呼ばれ、翌年のパリ万国博覧会で好評を得、それ以来1930年代後半まで製作されロングセラーとなりました。 ブラックモンは、葛飾北斎による版画『北斎漫画』や、自身のオリジナルの図柄をモチーフとして様々な図案を描きとり、それらを銅版に食刻したのち、黒インクで紙に印刷しました。その後職人たちが印刷されたシートを図案ごとに裁断し、器に配置しました。この食器の色彩は、それぞれ異なっているので、絵付けの配色は職人たちに委ねられていたことがわかります。当時の食器の常識は、中心と縁取りに模様が施されているというものでしたが、《ルソー》シリーズはまさに「革命的」でした。つまりこのシリーズでは、黒く太い輪郭線で囲われた動植物の絵柄の色彩が、余白を強調するほどに鮮やかなのです。さらに食器の縁取りを梳毛様で彩り、伝統的な高級感と斬新さを合わせ持ったこの食器は、驚きをもって迎えられたのでした。さらに1870年代に入るとフランスのボルドーで、ジュール・ヴィエイヤールが『北斎漫画』や『富嶽百景』のモチーフを組み合わせるなど、独特の食器装飾を生み出しました。
第2部 アビランド社の硬質磁器における革命 ― オートゥイユ工房のデザイン


《「散る薔薇」シリーズ コンポート》 アビランド社(リモージュ) フェリックス・ブラックモン 1876年、 Y. &L. ダルビス蔵
1842年の春、アメリカ人のダヴィッド・アビランド一家が、フランスの磁器産地、リモージュにやって来ました。この旅の目的は、アメリカの顧客が気に入りそうな食器の買い付けでしたが、商才に長けたダヴィッドはすぐこの地に装飾工房を設立し、さらに数年後には独自の磁器工場を建てました。1879年に二人の息子がダヴィッドの跡を相続した時には、ヨーロッパで最大の磁器製作所となっていました。普仏戦争を終えたフランスには新しい中流階級が生み出されていたので、近代的で手ごろな価格の製品開発の必要性を感じていたシャルル・アビランドは新しいデザイン・コンセプトを探るため、国立セーヴル磁器製作所を訪れました。そこで、フェリックス・ブラックモンと出会います。その後ブラックモンは、1872年7月に、パリの西部郊外にあるオートゥイユ工房の芸術監督となりました。ブラックモンは、磁器の装飾に多色石版印刷術を用いることによって、輪郭線の転写と絵付けを同時に行いコスト削減と斬新なデザインの開発に成功しました。ブラックモンは、《ルソー》シリーズで見せたモチーフを散りばめる手法を磁器に応用するなど、伝統やルールに捉われない、新しいデザインを生み出していったのです。
第3部 ファイアンス陶器から「印象派の陶磁器」 テラコッタへ−アビランド社オートゥイユ工房


《彫文青山秋景図大皿》 アビランド社 オートゥイユ工房 フェリックス・ブラックモン 1874年、 ファイアンス陶器 Y. &L. ダルビス蔵

《バルボティーヌ 草花燕図水注》 アビランド社 オートゥイユ工房 レオン・パリゾ 1876-1883年 テラコッタ Y. &L. ダルビス蔵
食器デザインで革命を起こしたアビランド社は業界のトップに躍り出ましたが、南北戦争から続いているアメリカの好景気にもかかわらず、シャルル・アビランドは、近く市場が下降傾向になると予測しました。そして製品の多様化を開始し、1872年中頃には、軟質磁器を再導入し、また洗面用具や花瓶などの製作に乗り出しましたが、売り上げは伸び悩みました。一方、1870年から71年の普仏戦争の頃、ブラックモンは陶芸家エルネスト・シャプレと出会います。シャルルが求めていたヨーロッパとアメリカ市場に注目される新しい技術を持っていたシャプレは、1876年にはオートゥイユ工房で、新しい技術「バルボティーヌ」による作品製作を開始しました。
「バルボティーヌ」とは、テラコッタの上から泥しょう(スリップ)を掛け、まるで画家がキャンヴァスに描くように絵付が施されるという技法です。装飾図案を担当する芸術家たちは、素材や光、日本の版画や前衛的な印象派絵画にみられる新しい構図や絵の具の扱い方にインスピレーションを受けて描きました。例えば花瓶に描かれた花は、静物画の花ではなく、まさに自然の中で生き生きと咲き乱れる風景の中の花でした。このように製作された風景画の作品の多くが、バルビゾン派の絵画様式を取り入れたものでした。
第4-1 碑器・新しい素材への新しいアプローチ ― アビランド社ブロメ通り工房


《日本風花文ティーポット》 アビランド社 ブロメ通り工房 1883-1885年 碑器、 Y. &L. ダルビス蔵
「私は1881年に深刻な病気になり…アビランド社を退き、(ノルマンディにいるとき)碑器の窯元をいくつか訪ね、何点か見本を作りました。それをシャルルとテオドールのアビランド両氏に見せたのですが、…ヴォジラールのブロメ通り153番地に小さな工房を作ることを許可してくださいました。」 (1901年5月7日付エルネスト・シャプレからロジェ・マルクスへの自叙伝的手紙より)
碑器といえば、農場で日常的な道具として使われていたものでした。そのような平凡なやきものがブルジョワ階級のリビングを飾るデザインになるとは、誰にも思いもよらない大胆な発想でしたが、さらにシャプレは、細かくふるいにかけた酸化鉄の豊富な土を選び、作品を型に入れてからろくろで回すことにより厚みを薄くする技法を取り入れたうえ、釉薬を使わず土の色を生かそうとしました。この原材料の色を生かしたことは、ひとつのジャポニスムといえるかもしれないと、本展監修者のロラン・ダルビスは述べています。 これらの焼締陶器は、1884年のなかば、ボストンとパリの展覧会で批評家から高い評価を受けました。また、1885年初めにはこれらの型を使い、リモージュの磁器工場で絵付けされた磁器の花瓶がつくられました。
第4-2 チャイニーズ・レッド ― 名陶工エルネスト・シャプレ


《銅紅釉梅瓶形壺》 アビランド社 ブロメ通り工房 エルネスト・シャプレ 1885年後半 磁器、 Y. &L. ダルビス蔵
フランス語で「牛の血の色」と呼ばれている銅紅釉は、18世紀初めに中国で完成されました。1883年に、シャルル・アビランドは、自ら所蔵する中国の陶磁器の複製を依頼するために、化学に詳しいル・ブラン・ド・ラボを雇い入れました。銅紅釉は、ナトリウムやカリウムのようなアルカリ度の高い酸化物と少量の酸化銅酸化アルミニウムの混合物です。高温で酸素が豊富な酸化状態では、釉薬は緑色に発色し、その反対の還元状態では、赤くなり、また、酸化アルミニウムをこの化合物に加え窯で焼くと液状に溶けて流れやすくなります。このように釉薬焼成の調整が極めて難しい研究に取り組んだシャプレは、1885年の3月にようやく「コツを見つけた」と記しています。1885年半ばには、アビランドの兄弟らは、パリのオートゥイユ工房とブロメ通り工房の実績に落胆していました。オートゥイユ工房は、多色石版印刷術の業務に限定され、ブロメ通り工房は、1886年初頭にはシャプレが買い取り、そこでチャイニーズ・レッドの銅紅釉の研究に没頭しました。シャプレは、ブラックモンが1886年印象派展で 知り合ったゴーギャンを紹介され、ゴーギャンに陶芸の仕事を勧め、この年、彼は、シャプレのもとで陶芸制作を行いました。そこでその後のポンタヴェンで制作する絵画をさらに発展させるクロワゾネ手法を見出し、シャプレもまた、ゴーギャンから芸術としての陶芸を学ぶのでした。