Artscene 芸術の風景 -アートシーン 展覧会情報

芸術、美術、展覧会の紹介をしています。

Paris、パリ、巴里 ─ 日本人が描く 1900–1945

artscene2013-04-22



2013年3月23日(土)−2013年6月9日(日)


明治維新以降、西洋文化を学んでそれを乗り越えることが、日本のひとつの目標となりました。日本人洋画家にとって、芸術の都パリは、19世紀末から聖地となります。いつか訪れてその空気を吸い、泰西名画や最新の美術に直に触れてみたい、と強く憧れる対象となりました。1900年以降、パリを訪れる洋画家たちが増えていきました。聖地パリで、あるものは衝撃を受け、あるものは西洋美術を必死に学びとろうとし、またあるものは、西洋文化の真っ只中で日本人のアイデンティティーを確立しようと試みます。ブリヂストン美術館石橋美術館のコレクションから、浅井忠、坂本繁二郎藤田嗣治佐伯祐三岡鹿之助たちがパリで描いた作品約35点を選び出し、さらに他館から約5点の関連作品を加えて、日本人洋画家にとってのパリの意味を考えてみます。20世紀前半の、生き生きとした異文化交流のありさまをお楽しみください。


http://www.bridgestone-museum.gr.jp/exhibitions/


休館日月曜日(祝日の場合は開館)


開館時間10:00−18:00(毎週金曜日は20:00まで)

※入館は閉館の30分前まで

障害者手帳をお持ちの方とご同伴者2名様まで半額となります。

入館料
個人
一般800円シニア(65歳以上)600円大学・高校生500円中学生以下無料

ブリヂストン美術館 
〒104-0031 東京都中央区京橋1丁目10番1号交通東京駅(八重洲中央口) より徒歩5分


東京メトロ銀座線 京橋駅(6番出口/明治屋口) から徒歩5分
東京メトロ銀座線・東京メトロ東西線・都営浅草線 日本橋駅(B1出口/高島屋口)から徒歩5分



第?章 パリ万博から第一次大戦まで 1900-1914


 1896(明治29)年、黒田清輝東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)西洋画科の指導者になってから、黒田は卒業生たちを、自分がかつて留学したパリに送り込むようになります。そのパリは、伝統的なアカデミズムの牙城がある一方で、1870年代から、印象派からポスト印象派、そして象徴派といった新しい美術運動が次々に湧き起こっていました。


 日本人美術家が大挙してパリを訪れたのは、1900(明治33)年が初めてのことでした。19世紀最後の年に開催された5回目のパリ万国博は、「ベル・エポック」といわれる時代を背景に、来るべき20世紀を展望することをテーマとしています。この万国博で、日本文化の伝統と同時に、明治維新以降30年間に西洋文化を学習した成果をも示したかった日本政府は、作品とともに美術界の主要人物をパリに送り込みます。このときパリを訪ねた画家には、黒田のほか、浅井忠、岡田三郎助、和田英作らがいます。彼らはパリでの視察を重ねながら、画家としても新たな潮流を吸収しようとしました。


 一方で、1900年代に入ると、私費でパリ留学を果たす画家たちが現れてきます。1907(明治40)年に渡仏した安井曾太郎、翌年渡仏の梅原龍三郎はその代表です。彼らはアカデミー・ジュリアンなどの画塾で絵画制作を学び直しながら、パリで出会った印象派やポスト印象派の作品に衝撃を受け、その学習に努めていきます。安井は1906年に亡くなっていたポール・セザンヌに私淑し、梅原は晩年のピエール=オーギュスト・ルノワールに直に会って指導を受けました。彼らの真摯で貪欲な研究ぶりは、今も私たちの心を打ちます。


 1914年7月に第一次世界大戦が勃発します。多くの日本人画家たちは帰国を余儀なくされました。20世紀前半の日本人画家たちのパリ留学は、ひと区切りをつけることになります。


浅井忠
《縫物》
1902年

安井曾太郎
《水浴裸婦》
1914年
石橋財団石橋美術館



第?章 黄金の1920年代と両大戦間期 1918-1945
 第一次世界大戦中、パリの日本人画家は激減しました。そのなかでフランスに留まった数少ない一人が、藤田嗣治です。大戦勃発の前年パリに入った藤田はすぐに帰国するのが惜しく、南仏、ロンドンなどに戦火を避けつつ、ヨーロッパに踏み留まりました。大戦末期の1917年前後、パリの郊外や都市風景を哀愁に満ちた色調で描き始めます。やがて1920年代に入ると、乳白色の下地に日本画の面相筆で裸婦や静物画を描く様式を確立させ、パリ画壇の寵児となりました。


 一方、大戦で戦勝国となった日本の経済発展を背景にして、日本人画家の渡仏が再開し、その数は飛躍的に増加しました。1920年代は、日本人のみならず様々な外国人美術家がパリに流入し、パブロ・ピカソアメデオ・モディリアーニ、キース・ヴァン・ドンゲンらが「エコール・ド・パリ」と呼ばれる活況をつくりだしていました。時代を覆い尽くすような特定の思潮がなく、様々なスタイルが混在する時代に彼らに課せられていたのは、だれのものでもない自分独自の表現をつくりだすことでした。日本人画家たちも自己の探究を競い合います。1920年代に、強烈な光を放ちつつパリで客死した画家に佐伯祐三がいます。初めて渡ったフランスで、モーリス・ド・ヴラマンクに出会い、アカデミズムを否定する強烈な個性に衝撃を受けます。やがてモーリス・ユトリロの都市風景の影響も受け、破れかけた広告が貼られたパリの街角、時間が堆積したかのようなカフェの一角、どっしりした石造りの壁などを、信じがたい速筆で描きまくるようになります。


 また、単にパリやパリ画壇に圧倒され礼讃するのではなく、批判的な眼差しで眺めながら、それでも自己にとって必要なものだけを吸収して、変貌を遂げていった画家たちがいます。1921(大正10)年に、同じ船でフランスに渡った坂本繁二郎小出楢重がその代表といえるでしょう。小出は、「何と云っても油絵はフランスだとか云ふ奴がよくゐるがフランスには油絵はどっさりあるが芸術は無いと云ってもよさそうだ」とパリから友人に書き送っています。しかし帰国後の作品を見ると、筆触が伸びやかに変化し、パリでの体験が小さくなかったことを教えてくれます。多様なパリ体験が画家たちを刺激していたというべきでしょう。


 1930(昭和5)年前後の昭和恐慌、次第に忍びよる戦火の足音が画家たちの渡航を、次第に困難にさせていきました。決定的だったのは、1939(昭和14)年9月の、第二次世界大戦の勃発です。ごく一部をのぞいてパリにいた画家たちはいっせいに帰国し、20世紀前半のパリ留学は幕を閉じます。



藤田嗣治
《猫のいる静物
1939-40年
©ADAGP, Paris & SPDA, Tokyo, 2012 B0051

佐伯祐三
《レストラン(オテル・デュ・マルシェ)》    
1927年
大阪市立近代美術館建設準備室


小出楢重
《パリ・ソンムラールの宿にて》
1922年
三重県立美術館


坂本繁二郎
《帽子を持てる女》
1923年
石橋財団石橋美術館


岡鹿之助
《セーヌ河畔》
1927年


関連イベント
巴里の日本人ものがたり
2013年5月11日(土)

毎週、水/金曜日の15:00から、当館の学芸員が展示作品を解説します。 ご予約は不要、お気軽にご参加ください。
丸の内アートサロン:Paris、パリ、巴里ー日本人描く1900-1945
コレクション展「ブリヂストン美術館コレクション展  色を見る、色を楽しむ。—ルドンの『夢想』、マティスの『ジャズ』…」
2013年6月22日(土)-2013年9月18日(水)



開館時間10:00−18:00(毎週金曜日は20:00まで)


月曜休館(祝日の場合は開館)

※入館は閉館の30分前まで※休館日は展覧会によって異なる場合がありますので、休館日カレンダーをご確認下さい。



交通
東京駅(八重洲中央口)より徒歩5分
東京メトロ銀座線京橋駅(6番出口/明治屋口)から徒歩5分
東京メトロ銀座線・東京メトロ東西線・都営浅草線日本橋駅(B1出口/高島屋口)から徒歩5分



ルーヴル美術館とパリの素描 (第1巻) 14、15、16世紀

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