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「施薬院」と「悲田院」の活動が記された平安時代前期の木簡


 京都市埋蔵文化財研究所は南区東九条上殿田町の発掘調査で、平安京に置かれ、貧しい人々を救済した施設「施薬院」と「悲田院」の活動が記された平安時代前期の木簡17点が見つかったと発表した。収容者の死亡報告や薬に使用した材料などがあり、当時の役所と庶民との関係を知る史料になる。

 調査地は平安京のほぼ南東端の左京九条三坊十町。文献から「施薬院」と推定される場所に近く、調査地内の池の跡から関連する木簡がまとまって出土。「弘仁六(815)年三月十日」の日付がある木簡には、表に死んだ男女の氏名と性別、年齢のほか「左京人」と書かれていた。裏面には施薬院の農耕従事者を示す「客作児(きゃくさくじ)」が4人死んだと記されていた。収容者の死亡報告とみられる。

 「武蔵國施薬院蜀椒壹斗(しょくしょういっと)」と記された木簡は、朝倉山椒(さんしょう)の異名「蜀椒」の荷札とみられ、武蔵国から施薬院に送られたことを示す。また、「悲田院解 申請」と書かれた木簡は悲田院から施薬院の上役に上申した文書とみられる。他にもイノシシの脂など薬の材料となる物品や白米の荷札が含まれていた。

 調査に携わった吉野秋二京都産業大准教授(日本古代史)は「収容者の名前など詳細が記された死亡報告の木簡はリアルで、施薬院の活動と民衆の関わりが具体的に分かる。施薬院悲田院を統括していたこともはっきりした」と話す。

 調査は終了し木簡は3−21日に市考古資料館(上京区)で展示される。


・ 平安の施薬院木簡、初出土=薬の原料など記す―京都市 - サンショウやショウガ、イノシシの脂など、諸国から送られた薬物の原料名のほか、収容者の名前や職業、死亡年月日などが書かれていた。

・ <平安京跡>「施薬院」木簡が出土 窮民救済活動示す - 「貴族のための都」としてのイメージの強い平安京だが、困っている庶民を、全国から薬や米を集めて助けていたことがうかがえ、中世史のイメージが明るくなるようだ。

 平安京で路頭に迷った病人や孤児らの救済施設「施薬(せやく)院」「悲田(ひでん)院」の名が記された平安前期(9世紀前半)の木簡が、文献上で施設があったとされる付近の京都市南区平安京跡(左京九条三坊十町)から見つかった。平安時代の両施設に関して記述された木簡が出土するのは初めて。諸国から集められた薬などの荷札の他、「死亡報告書」とも言える木簡もあり、平安時代の困窮した市民の救済活動を表す史料だ。京都市埋蔵文化財研究所が2日、発表した。

 木簡が出土した場所は、JR京都駅の南約300メートル。鎌倉時代の「九条家文書」によると、施薬院関連施設とみられる「御倉」跡地で、約120メートル南西に施薬院があったとされる。庭園の池の一部とみられる遺構が確認され、池の堆積(たいせき)物から木簡が土器とともに見つかった。

 出土した平安前期の木簡は17点で、このうち4点が荷札とみられる。関東地方から薬の原料のサンショウが当時の1斗(現在の約7.2リットル)届けられたことを示す「武蔵国薬院蜀椒壹斗」と書かれたものの他、6種類の生薬を調合した丸薬「六物□□丸」(「□」は判読不能)、食料や財源としての米が香川県から運ばれたことを示す「讃支白米五斗宮道□□」などの記述が確認された。

 また、815(弘仁6)年3月10日の日付のある木簡には、2月4日に施薬院に来た「大伴□□」という37歳とみられる男性と「土師浄女」という56歳の女性が死亡したことが記されていた。木簡の上部には穴が開けられており、とじて保管する「死亡報告書」の意味合いを持つ木簡だったことがうかがえる。悲田院が上部組織の施薬院に塩を求めたとみられる木簡もあった。

 発掘調査は3月に終了している。木簡は、京都市上京区の市考古資料館(075・432・3245)で3日から21日まで展示される。【藤田文亮】

 平安京の歴史に詳しい西山良平・京都大大学院教授(日本古代史)の話 施薬院悲田院の窮民救済活動の一端が、木簡の記述によって初めて分かった。「貴族のための都」としてのイメージの強い平安京だが、困っている庶民を、全国から薬や米を集めて助けていたことがうかがえ、中世史のイメージが明るくなるようだ。

 【ことば】施薬院

 奈良時代光明皇后平城京に設けたことで知られ、平安時代にも受け継がれた。平安時代の法律集「類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)」には、「路辺の病人・孤子」を受け入れる趣旨の施設だったとの記述がある。運営用の領地が朝廷から与えられ、病院の機能を持ち、全国から薬などが集められた他、薬草栽培農園を持っていた。施薬院の下部組織としての「悲田院」は、孤児やホームレスを受け入れるために乳母も配置されていたという。