Artscene 芸術の風景 -アートシーン 展覧会情報

芸術、美術、展覧会の紹介をしています。

ヨコハマトリエンナーレ2014

artscene2014-03-28



横浜トリエンナーレ、第5回展となる「ヨコハマトリエンナーレ2014」は、アーティスティック・ディレクターに美術家の森村泰昌氏を迎え、2014年8月から11月 に開催します。

展覧会タイトル

華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある



8.1[金]-11.3[月・祝]
開場日数:89日間
※休場日:第1・3木曜日(8/7,8/21,9/4,9/18,10/2,10/16,計6日間)
開場時間

10:00-18:00
※入場は開場の30分前まで
(8月9日[土]、9月13日[土]、10月11日[土]、 11月1日[土]は20:00まで開場)
主会場

横浜美術館、新港ピア(新港ふ頭展示施設)
詳細はこちら
アーティスティック・ディレクター

森村 泰昌
詳細はこちら
主催

横浜市、(公財)横浜市芸術文化振興財団、 NHK、朝日新聞社
横浜トリエンナーレ組織委員会
支援
文化庁(国際芸術フェスティバル支援事業)
文化庁(国際芸術フェスティバル支援事業)
特別協力独立行政法人国際交流基金
後援外務省、神奈川県、神奈川新聞社tvkテレビ神奈川

http://www.yokohamatriennale.jp/2014







展覧会構成
Structure

ふたつの序章と11の挿話からなる
「忘却の海」の漂流譚
ヨコハマトリエンナーレ2014
アーティスティック・ディレクター
森村泰昌



アーティスティックディレクター 森村泰昌(もりむら やすまさ)
Artistic Director / MORIMURA Yasumasa

芸術の良心、未知の芸術

森村泰晶
©Morimura Yasumasa+ROJIAN
行き先は未知である。しかし横浜から舟は出港した。その船長が私だとしたら、正直なところ、舵取りはかなり危険である。
美術家である私は、国際展のアーティスティックディレクターを務めた事など、一度もない。はじめて舵輪を握るのであり、しかもどのように操舵するのか、練習もないまま舟は出港したのである。
しかし、このいささか無謀とも思える船出こそ、今、国際展には必要とされているのではないだろうか。2000 年代に入り、国際展は国内外問わず、各所で我も我もと立ち上げられて、すでに物珍しい催事ではなくなった。単に大きいだけの規模。楽しいだけのお祭り騒ぎ。単純なポピュリズムグローバリズムローカリズム。芸術世界への市場原理の強すぎる影響などが目立ち、関係者のみならず、観客のほうからも、これでいいのだろうかという疑問の声が、まだ少数派かもしれないが、そろそろ出始めているのではないか。
私は原理主義者ではないので、芸術はこうあるべきだと一方的に決めつけたくはない。堅苦しい枷をはめて、それに合致しない作品はすべて排除するなどという不自由は選択しない。だが、なんでもありというのでは困る。自由な表現の場を確保しつつ、これだけはキープしたいという信念は捨てないでおきたい。では私が捨てず持ち続けたい信念とは何か。それは「芸術の良心」というものである。もし芸術の神様がいるとすれば、その神様に捧げる芸術作品が、なんら恥じる事のない供物であっていてほしいという願いである。
かくのごとく、アーティスティックディレクターという重責を担った経験のない私は、ほとんど理想主義者としての夢を語るにすぎず、それは、現実という名の向かい風といかに上手くつき合うかが成功の決め手と知るプロのキュレーターたちからは、甘いと諭されるかもしれない。確かに、夢や理想だけが価値基準である美術家の児戯じみた舵取りは、いかにも危うい。だがこの初心者の危うさを、忘れかけている冒険心と捉えなおし、芸術世界の未知数に向かって新鮮な気構えで旅に出る。これはこれで、重要な提案を必ずや孕むだろう。
約2年間の長旅となるが、好奇心と愛情をもって、じっくりと見守っていただきたい。よろしくお願いいたします。
2012年12月18日
略歴

1951年、大阪市生まれ、同市在住。京都市立芸術大学美術学部卒業、専攻科修了。

1985 年、ゴッホの自画像に扮したセルフポートレイト写真を発表。以後、一貫して「自画像的作品」をテーマに、美術史上の名画や往年の映画女優、20 世紀の偉人たちなどに扮した写真や映像作品を制作している。

1988 年、第43 回ヴェネチア・ビエンナーレ、アペルトに出品したほか、国内外で多数の展覧会に出品している。

主な個展に、「美に至る病―女優になった私」(横浜美術館、1996 年)、「空装美術館―絵画になった私」(東京都現代美術館、他2 館、1998 年)、「私の中のフリーダ/森村泰昌のセルフポートレイト」(原美術館、2001年)、「美の教室、静聴せよ」(熊本市現代美術館、横浜美術館、2007年)、「Requiem for the XX Century. Twilight of the Turbulent Gods」(La Galleria di Piazza San Marcoヴェネチア、他ニューヨーク、パリに巡回、2007、2008 年)、「なにものかへのレクイエム―戦場の頂上の芸術」(東京都写真美術館、他3 館、2010、2011年)、「森村泰昌展 ベラスケス頌:侍女たちは夜に甦る」(資生堂ギャラリー、2013年)、「森村泰昌 レンブラントの部屋、再び」(原美術館、2013年)など。文筆活動も精力的に行っており、近著に『森村泰昌「全女優」』(二玄社、2010 年)、『まねぶ美術史』(赤々舎、2010 年)、『対談集 なにものかへのレクイエム―20 世紀を思考する』(岩波書店、2011年)など。

2006年度京都府文化賞・功労賞、2007年度芸術選奨文部科学大臣賞、2011年に第52回毎日芸術賞日本写真協会賞・作家賞、第24 回京都美術文化賞の各賞を受賞。同年、秋の紫綬褒章を受章。2013年に平成25 年度京都市文化功労者として表彰を受ける。







[横浜美術館前の序章] 
アンモニュメンタルなモニュメント
[グランドギャラリーの序章] 
世界の中心にはなにがある? 
[横浜美術館]
第1話:沈黙とささやきに耳をかたむける
第2話:漂流する教室にであう
第3話:華氏451はいかに芸術にあらわれたか
第4話:たった独りで世界と格闘する重労働
第5話:非人称の漂流(仮題)
第6話:おそるべき子供たちの独り芝居
第7話:光にむかって消滅する
[周辺会場]
第8話:漂流を招き入れる旅、漂流を映しこむ海
[横浜美術館/新港ピア]
第9話:「華氏451度」を奏でる(仮題)
第10話:洪水のあと(仮題)
[新港ピア]
第11話:忘却の海に漂う
美術館前の序章 アンモニュメンタルなモニュメント/横浜美術館屋外

トラックなのに、ゴシック様式の教会のよう。誰もが好きなことば「LOVE」なのに、なんともたよりなくゆがんでいる。
デルボアもギムホンソックも、巨大なモニュメントでありながら、モニュメントの骨抜きを企てる。空間や人の心をその迫力によって支配しようとするモニュメント志向に、いたずらな仕掛けをして、アンモニュメンタルなモニュメントという、なんとも壮大な矛盾を創出する。
ヴィム・デルボア/Wim DELVOYEギムホンソック/Gimhongsok
グランドギャラリーの序章 世界の中心にはなにがある?/横浜美術館

なにかが創り出されるとき、なにかが忘れられる。使われなかった大量の材料、見せないまましまい込まれた失敗作の数々、排出したゴミの山。それらは、完成作が美術館にうやうやしく展示されるやいなや、まるでこの世には存在していなかったかのように、人目を忍び忘却の海へ、漂流の旅に出る。
人類が築きあげてきた芸術の創造の歴史、それよりもはるかに大量の忘却があり、ほんとうは、その忘却の重みこそが、美術史の本体となる。いざ、忘却へ。いざ、ゴミ箱へ。
マイケル・ランディ/Michael LANDY
第1話:沈黙とささやきに耳をかたむける/横浜美術館

黙っているものは情報化されずに忘れられていく。ささやきも耳をそばだてないと聞こえてこない。 しかし「沈黙」や「ささやき」には、饒舌や演説を凌駕する重みや強度が隠されている。 その重みや強度が芸術になる。
カジミール・マレーヴィチ/Kazimir MALEVICHアグネス・マーティン/Agnes MARTINブリンキー・パレルモBlinky PALERMOジョシュ・スミス/Josh SMITHカルメロ・ベルメホ/Karmelo BERMEJO木村浩/KIMURA Hiroshiルネ・マグリット/René MAGRITTEマルセル・ブロータース/Marcel BROODTHAERSヴィヤ・セルミンス/Vija CELMINSイザ・ゲンツケン/Isa GENZKENフェリックス・ゴンザレス=トレス/Felix GONZALEZ-TORRES村上友晴/MURAKAMI Tomoharuイアン・ウィルソン/Ian WILSON
第2話:漂流する教室にであう/横浜美術館

日本の戦後の高度成長を支える労働力を供給し続け、しかしその成長の停止とともに置き去りにされた町、釜ヶ崎
釜ヶ崎芸術大学」(通称「釜芸」)は、高齢化、医療、就労、住居、生と死等々、多くの問題を抱えた釜ヶ崎に、「表現」行為を通じて関わるべく立ちあげられた。
今夏、「釜芸」が横浜に漂着する。釜ヶ崎が発信する感覚、まなざし、生きる姿勢が、どんな「夏の教室」になっていくのか。それは、やってみないとわからない。
釜ヶ崎芸術大学/Kama Gei
第3話:華氏451はいかに芸術にあらわれたか/横浜美術館

人類の歴史に繰り返し登場する、思想統制という強制的になにものかが抹殺される悲劇。
それらを批判したり糾弾したりすることが、ここでの目的ではない。
かつてあった、あるいは今もどこかで起こっているそうした悲劇が、ほかならぬ私自身の今を映し出す鏡となりはしないか。「おまえはどうなの」と私に私自身を振りかえらせる手がかりとなりはしないか。
モエナイコトバ/Moe Nai Ko To Ba大谷芳久コレクション/OTANI Yoshihisa Collection松本竣介/MATSUMOTO Shunsuke奈良原一高/NARAHARA Ikkoエリック・ボードレール/Eric BAUDELAIREドラ・ガルシア/Dora GARCÍAマイケル・ラコウィッツ/Michael RAKOWITZエドワード&ナンシー・キーンホルツ/Edward & Nancy Reddin KIENHOLZ
第4話:たった独りで世界と格闘する重労働/横浜美術館

芸術家は、理由もなくいきなり社会や宇宙と格闘しはじめる。
たった独りで立ちむかうこの重労働は、生きる衝動の純粋なあらわれなのだが、無意味で無用な徒労のようにも見える。だからそれは、役立つことを求める価値観から離脱して、忘却の海に出ることになる。そしていかなる風にもなびかず、孤独な光を放ちつづける。
さながらそれは、聖人が粗末な衣服を身につけていても、頭の背後にともるかすかな光輪によって、はっきりと見分けがつく、あれと同じ質の輝きである。
福岡道雄/FUKUOKA Michio中平卓馬/NAKAHIRA Takumaアリギエロ・ボエッティ/Alighiero BOETTI張恩利(ザン・エンリ)/ZHANG Enli毛利悠子/MOHRI Yukoサイモン・スターリング/Simon STARLING吉村益信/YOSHIMURA Masunobu和田昌宏/WADA Masahiro
第5話:非人称の漂流(仮題)/横浜美術館

(第5話についての個人的な覚え書き)
テニスコートから法廷へ。
法廷から監獄へ。

コートの中央に張られたネットをはさみ向きあう選手と、それを見守る審判。この登場人物が、被告と原告と裁判官へと置きかわり、やがて法廷は監獄への道を準備する。

これは、一見シンプルに感じられる変容のプロセスだが、しかし足を踏みいれたとたん、私の脳と身体は真っ白になる。というのも、視覚にはいるのはイスや柵やネットという、いたって具体的なイメージなのに、それらにはどんな意味も付与されておらず、全体が、誰もがいかようにも入り込める多孔質でできあがっているからである。

巨大だが空気のように軽く、なんいうか異常な重力を感じつつ浮遊感を味わうというような、ある種のめまい、ある種の吐き気、ある種の恐怖、それでいて確実にある種の誘惑がある。
これは作品と呼べるだろうか。からっぽなのに、思い入れ次第では本物の船や戦車や飛行機にもまさる実感をともなう、巨大な観念のプラモデル。

ちなみにこの仮構物の作者名は空欄になっている。無記名というよりは、作者欄が非人称になっている。
「雨がふる」のは、「I=私」でも「you=あなた」でもなく、「It=それ/It is raining」であるように、ここでのできごとは、特定の誰かの指示によるものではない。
作品とは、特定の作者である「私」の制作物を意味するが、もしこの「私」というものが私自身の専有物ではなく、無数の他者、無数の歴史、無数の言葉、無数の数式や確率や情報等々によって形成された偶然性の賜物であるとしたら、特定の名前を持つ「私」に与えられた固有性は、その根拠を失ってしまうだろう。

この巨大な観念のプラモデルを作り出したのは、誰でもなく、また誰でもありえた。誰もが共犯者なのだと言うべきか。

第6話:おそるべき子供たちの独り芝居/横浜美術館

人間はおとなになることと引きかえに、幼年期の記憶を捨てなければならない。ところが、この幼年期の記憶に深くとらわれて、前に進めなくなってしまった人々がいる。その典型が芸術家である。芸術家とは、おとなになりそこねた子供なのである。おとなになって忘れてしまった、私たち人間の生まれいずる源へと帰郷する旅。それは私たちが、おそるべき子供たちの独り芝居に巻きこまれる、試練への誘惑でもある。
ジョゼフ・コーネル/Joseph CORNELL坂上チユキ/SAKAGAMI Chiyuki松井智惠/MATSUI Chieアリーナ・シャポツニコフ/Alina SZAPOCZNIKOWピエール・モリニエ/Pierre MOLINIERアンディ・ウォーホルAndy WARHOLグレゴール・シュナイダー/Gregor SCHNEIDER
第7話:光にむかって消滅する/横浜美術館

なにごとも忘れてしまったら、私たちはそのことについて、語ることも、見ることも、知ることも、もはや出来なくなってしまう。だから「忘却」とは、つかみとることが不可能な、永遠に逃れ去る憧れのようなものである。
しかし「忘却」の実体には追いつけなくとも、かつてそこにあったはずの「忘却」の面影、「忘却」が立ち去ったあとに残るかぐわしき「忘却の光芒」なら感じとることができるだろう。
三嶋安住+三嶋りつ惠/MISHIMA Anju + MISHIMA Ritsue
第8話:漂流を招きいれる旅、漂流を映しこむ海/周辺会場

高山明の「演劇」は、演劇による演劇の剥奪である。劇場や舞台、あるいは役者と観客の役割分担といった、演劇には当然とされる必要アイテムをことごとくリストラし、あらためて無名の漂流物としてそれらをかき寄せる。
高山をそういう手のこんだ手法に走らせるものとはなんなのか。それは、演劇に期待されている、祝祭的な感動がもたらす有無を言わせぬ一体感への、危機意識である。
熱狂した人々がひとつの感動のかたまりとなってメイクドラマに酔いしれるとき、高山はその熱気からそっと離れ、冷めた熱狂とでもいうべき批評精神の船舵をとり、忘却の海へと旅立っていく。
トヨダヒトシは、リヴァーサルフィルムによるスライドショーを表現の場と定め、印画紙という物質にイメージを定住させることを拒む。現れたかと思えば消え、消えたかと思えば現れる光の断章の集積。それらは、私たちを光の明滅としてのイメージが漂流する海へといざない、深い沈黙のまっただなかに置き去りにする。
高山明/TAKAYAMA Akiraトヨダ ヒトシ/TOYODA Hitoshi
第9話:「華氏451度」を奏でる(仮題)/横浜美術館
第10話:洪水のあと(仮題)/新港ピア

さまざまな方角から流れついたさまざまな漂流物が、一瞬同じ時間と場所を共有し、やがてまた思い思いの方角へと散っていく。人の営みも展覧会も、同じく、そのような漂流物の遭遇と別離としてとらえてみたらどうだろうか。
ほぼ同時期に開催される「札幌国際芸術祭」、「福岡アジア美術トリエンナーレ」、「横浜トリエンナーレ」の三者が遭遇し、乗り入れ状態となる。今見ているのはどの国際展なのか、観客は一瞬わからなくなるかもしれないが、風穴があいていたほうが、新鮮な空気も舞い込み、視界もずっとよくなるにちがいない。
札幌国際芸術祭2014/Sapporo International Art Festival 2014福岡アジア美術トリエンナーレ/Fukuoka Asian Art Triennale
第11話:忘却の海に漂う/新港ピア

すべてを見終わった旅人(観客)が、最後に目にするのは、茫漠たる忘却の海。
沈黙、ささやき、死(と生)、無、カオス、帰郷、光・・・。記憶や情報がおよびもつかない深くて広い海。
旅人はこの忘却の海へと漂流する。それは、それぞれの到達点を探し出すための、それぞれの旅立ちでもある
やなぎみわ/YANAGI Miwa土田ヒロミ/TSUCHIDA Hiromi殿敷 侃/TONOSHIKI Tadashiメルヴィン・モティ/Melvin MOTIバス・ヤン・アデル/Bas Jan ADERジャック・ゴールドスタイン/Jack GOLDSTEINアナ・メンディエータ/Ana MENDIETAアクラム・ザタリ/Akram ZAATARIイライアス・ハンセン/Elias HANSENヤン・ヴォー/Danh VO笠原恵実子/KASAHARA Emiko葛西絵里香/KASAI Erikaキム・ヨンイク/KIM Yongik松澤 宥/MATSUZAWA Yutaka大竹伸朗/OHTAKE Shinro日埜直彦/HINO Naohiko