Artscene 芸術の風景 -アートシーン 展覧会情報

芸術、美術、展覧会の紹介をしています。

ミュシャ展−パリの夢 モラヴィアの祈り

artscene2013-03-01



日本テレビ開局60年特別美術展
ミュシャ財団秘蔵 

ミュシャ展−パリの夢 モラヴィアの祈り
会期 2013年3月9日(土)5月19日(日)休館日 4月25日(木)

http://www.roppongihills.com/art/macg

http://www.ntv.co.jp/mucha/



19世紀末を代表する画家、ミュシャの日本初公開作品を含む珠玉の作品およそ240点が森アーツセンターギャラリーに集結。日本で最初のミュシャ回顧展が1978年に開催されて以来、数多く開催されているミュシャ展。

作品の美しさに焦点を当て、年代順に構成するスタイルではなく、支柱となる6つのテーマを通して、芸術家ミュシャが生涯変わらず持ち続けたチェコ人としてのアイデンティティーや祖国愛、ミュシャの芸術家としての業績や思想、作品の背景に光をあてる。

人間およびアーティストとしてのミュシャの全体像を示す。

会場 森アーツセンターギャラリー


〒106-6150 


港区六本木6-10-1 六本木ヒルズ森タワー52階

開館時間 10時−20時 (但し、火曜日は17時まで)


入館は閉館の30分前まで


一般 ¥1,500、大学生 ¥1,200、中高生 ¥800



■主催者より
このたび、日本テレビ開局60年特別美術展として2013年3月から森アーツセンターギャラリー(六本木)、6月から新潟県万代島美術館、10月から愛媛県美術館、2014年1月から宮城県美術館、4月から北海道道立近代美術館において、「ミュシャ財団秘蔵 ミュシャ展‐パリの夢 モラヴィアの祈り」を開催する運びとなりました。
アルフォンス・ミュシャ(1860‐1939)は、19世紀末を代表する画家であり、アール・ヌーヴォー様式の巨匠のひとりとして日本でも幅広い人気を誇る作家です。
日本で最初の回顧展が開催されたのは1978年のことです。以来、数多くのミュシャ展が開催されてきました。その多くは、世紀末のパリ時代の作品や活動に焦点をおいたもの、または年代を追って構成されたものでした。日本テレビも2004年から2006年にかけてミュシャ展を開催し、ミュシャ本人の作家活動を総覧しました。
本展は、ミュシャ財団の全面協力のもと、これまでの展覧会とは一線を画し、ミュシャの芸術家としての功績を通じて、作品のみならず、作家のコンセプトや芸術理念、さらには思想を考察するという斬新なものです。
これまでより一歩踏み込んだ「ミュシャ財団秘蔵 ミュシャ展‐パリの夢 モラヴィアの祈り」、どうぞ皆様にご紹介頂きますよう、お願い申し上げます。



■ジョン・ミュシャ氏よりメッセージ


この度、2013年3月より、東京・森アーツセンターギャラリーを皮切りに日本全国を巡るミュシャ展について、皆様にご紹介できることを心より光栄に存じます。本展覧会は、祖父ミュシャの慣れ親しまれたポスターをはじめ、絵画、パステル、宝飾品、素描、立体物、そして彼に直接関わりのあるプライベートな品々など、240点余りから構成されています。これらの作品には、チェコ共和国にとって国家の記念碑ともいうべき作品群も含まれている上、多くは、日本で初めて公開されるものです。つまり本展は、その展示作品の幅広さ、内容、メッセージ性からも、過去に類をみない画期的な展覧会といえます。
ミュシャ家と日本の関係は1960年代に遡ることができますが、ミュシャ財団と日本とは、1992年に財団が設立して以来の繋がりがあり、その絆は今や、大変強いものとなりました。
ご存知の通り、私の祖父は、広告のパイオニアの一人でした。その意味で日本のメディアの方々にこのメッセージをお伝えできることを特に嬉しく思っています。世界が直面する複雑な現代にあって、ミュシャの作品を既にご存知であるか否かに関わらず、彼がその作品に込めた、調和、芸術の果たす役割や重要性などといったメッセージが本展覧会で皆様に伝わることと信じています。祖父は、人類のより良き将来を追求するため、自らの作品が共同体や文化の架け橋になるものと確信していました。
本展覧会が、ご来訪いただいた皆様のより良い人生の一端となれば幸いです。



交通のご案内
六本木ヒルズへの交通案内


東京メトロ 日比谷線六本木駅」1C出口 徒歩0分(コンコースにて直結)
都営地下鉄 大江戸線六本木駅」3出口 徒歩4分
都営地下鉄 大江戸線麻布十番駅」7出口 徒歩5分
東京メトロ 南北線麻布十番駅」4出口 徒歩8分



千足伸行

日本でも絶大な人気を誇るアルフォンス・ミュシャ(現地読みでは「ムハ」)の展覧会はこれまでも数多く開かれてきましたが、ミュシャ人気を支えているのはなんといっても数々の独創的なポスターや、美人画花鳥画を合わせたような華やかなカラーリトグラフです(いわゆる「装飾パネル」)。つまりグラフィック・アーティストとしてのミュシャですが、1895年の新春公演のためパリ中に貼り出されたサラ・ベルナールのためのポスター《ジスモンダ》で、彼が彗星のようにデビューしたことはよく知られています。それまでは書物の挿絵のような地味な仕事をしていたミュシャがほとんどなんの前触れもなく《ジスモンダ》の華麗なミュシャに変身したのはある意味では謎ですが、以後、祖国に帰るまでのおよそ25年間、ミュシャはパリのアートシーンに君臨します。


ミュシャの芸術はアール・ヌーヴォーを抜きにしては語れず、アール・ヌーヴォーミュシャを抜きにしては語れません。「ミュシャ様式」という言葉は装飾性豊かな彼個人の様式を指すと同時に、アール・ヌーヴォーの代名詞のようにも使われますが、本展では「ミュシャ」と聞いた時、誰もが思い浮べるようなポスター、リトグラフの名作に加え、紙ではなくシルクサテンに刷った本邦初公開の《四芸術》シリーズの他、ロンドンのミュシャ財団秘蔵の極めて質の高い作品が多数展示されます。


ミュシャにはグラフィック・アーティストとしての他、油彩画家としての顔もあります。ミュンヘンの美術アカデミーで油彩画の本格的な修業を積んだミュシャは、グラフィック・アーティストとして成功した後も画家としての野心を捨てることなく、油彩画を描き続けました。その最大の、最終的な成果が壁画的なスケールの大画面から成る《スラヴ叙事詩》ですが、油彩画は版画と違い「1点もの」であるため、これまでのミュシャ展でも散発的、限定的に紹介されてきた感はあります。今回は自画像や家族の肖像をはじめ、「画家」としてのミュシャにも焦点を当て、およそ30点の油彩が出品されます。



ミュシャにはこのほか、シェイクスピア劇などのための舞台衣裳・装置、アクセサリー、キャンディーボックスなどのデザイナーとしての顔、作品の数は限られていますが彫刻家としての顔、挿絵画家としての顔、あるいは写真家としての顔(彼の交友関係や私生活の記録として、またとりわけ《スラヴ叙事詩》の取材メモとしても興味深いものです)など、様々な顔があります。本展はこうしたマルチタレント的なミュシャの全貌を明らかにしていますが、これまでのミュシャ展ではとかくアール・ヌーヴォーの、ベル・エポックミュシャに焦点が合い過ぎている感がありました。ロンドンのミュシャ財団からの提案もあり、本展ではパリ時代のミュシャのみならず、祖国に帰ってからの、あるいはチェコ人としての彼の生涯と思想にも焦点を当て、全体を6章で構成しました。


ミュシャには「アール・ヌーヴォーのプリンス」、「ベル・エポックの寵児」、「世紀末のサクセス・ストーリー」といったイメージがつきまとい、それはそれで間違いありませんが、同時に彼は彼の出自であるスラヴ民族の歴史と運命に深い思いを抱く熱烈なナショナリストでした。パリでの華やかな成功と名声に甘んじることなく、第一次大戦の勃発(1914年)とほぼ時を同じくして祖国に帰り、長らくハプスブルク帝国支配下にあった祖国の復興に尽くし、貧しく恵まれない人々のためのポスターや、新生チェコの切手、紙幣などのデザインを(ノーギャラで)引き受けたのもその表れでした。本展の副題「パリの夢 モラヴィアの祈り」にもそれは反映していますが、ミュシャにはまたアール・ヌーヴォー風の彼の作品からは想像しにくい世紀末の象徴主義、これとも関係の深い神秘的、オカルト的なものへの関心、パリとプラハフリーメイソンのメンバーとしての顔など、いくつかの「知られざるミュシャ」も存在します。



ミュシャマニア」という言葉が生まれるほどのミュシャの絶大な人気が一過性のものでなく、今なお健在で、欧米や日本ばかりでなく、例えば最近台湾でも本格的なミュシャ展が開催されるなど、その人気、注目度が一層の広がりを見せているのも、彼の人と芸術のこうした幅広さ、奥行にあると言えるでしょう。ミュシャ財団から厳選された240点を超える出品作で構成される本展は、人間およびアーティストとしてのミュシャの全体像をご覧いただく貴重な機会となることでしょう。


画家・ミュシャの紹介
苦労を重ねる学生時代
ミュシャは中学校に通いながら教会の聖歌隊としても活躍しました(そこで描いた聖歌集の表紙は、彼の初の公的な仕事でした)。しかし、学業不振により中学校を、また声変わりにより聖歌隊をやめると、音楽の道から美術の世界へと進みます。
裁判所の書記として働き始める傍ら、デッサンに励みプラハの美術学校をめざしました。受験には失敗してしまいますが、19歳でウィーンに行き、舞台装置などを製作する工房で助手として働きはじめます。しかし2年後、工房の最良の顧客であった劇場の火災にともない仕事が激減、解雇されてしまいます。その後、南モラヴィアのミクロフの町で肖像画を描いて生計を立てていましたが、地元のクーエン・ベラシ伯爵、弟のエゴン伯爵と出会い、援助を受けたミュシャは、ミュンヘンとパリの美術学校への留学の機会を得ることになります。
パリで最先端の美術を吸収したのち、1889年に援助を打ち切られたミュシャの新たな拠り所となったのは、マダム・シャルロットの食堂に集う芸術家たちのコミュニティでした。ミュシャはコミュニティのメンバーとなり、食堂の2階に下宿します。

《パレットを持った自画像》
1907 年頃
(C)Mucha Trust 2013

少年時代のミュシャが、故郷の教会のベンチに
落書きした名前のイニシャル(A. M. )
1860 年代後半


運命の出会い!
一躍、パリの人気画家に!
1894年の年末、友人の代わりに印刷所で働いていたミュシャは、思いがけず『ジスモンダ』のポスターを作るよう依頼されます。そのポスターは、「女神サラ」と呼ばれたパリの人気女優、サラ・ベルナールが主演する舞台の宣伝ポスターでした。翌年元旦、ミュシャのポスターは、パリの街頭に貼り出されると同時に大評判となります。一晩にしてミュシャは、人気ポスター画家としての名声を得たのです。それまで雑誌や書籍などの挿絵の仕事ばかりでポスター制作の経験がないミュシャでしたが、サラは一目でそれを気に入り、ミュシャと6年間の専属契約を結びます。


その後、ミュシャはこの契約の下に『椿姫』、『ロレンザッチオ』、『メディア』、『トスカ』など、サラ・ベルナールのポスターを制作していきます。そしてそれらは、彼女のアイドルとしてのイメージを創り出し、定着させることになります。他方で、サラ・ベルナールとの交流は、ミュシャの作品における演劇的な表現を成長させてくれました。



ミュシャが探求した「美」
ミュシャが考えていた芸術とは、目にみえる外面的な美しさと、内面的な美しさの調和がとれた世界でした。そして、それらをより多くの人々に触れてもらい、彼らの生活をより豊かにすることを何よりも大切にしました。こうして生まれたのが、一般の人にも手が届く観賞用のポスターや装飾パネル、人々がデザインする手引きとして考案された『装飾資料集』や『装飾人物集』でした。ポスターに並び、装飾パネルや、本展に出展される《四季》、《四芸術》、《宝石》などの連作も多く手掛けています。



《『装飾資料集』 図50 の最終習作》
1899 年
(C)Mucha Trust 2013

《『装飾資料集』 図49 の最終習作》
1901- 02 年
(C)Mucha Trust 2013

モエ・エ・シャンドン
ホワイトスター シャンペン》
1899 年
(C)Mucha Trust 2013


故郷に秘めた思い、
ミュシャの晩年と民族意識
ミュシャが晩年に向かって思い描く、「内面的な美しさ」「美への思い」とは何だったのでしょうか。 1910年、ミュシャは故国であるチェコに帰国し、《スラヴ叙事詩》を制作します。20点の絵画から成るこの一連の作品は、スメタナ組曲『わが祖国』から着想し、スラヴ民族の歴史を描き、完成まで20年という歳月を要しました。また、この時期、ミュシャチェコ人の愛国心を喚起する多くの作品群やプラハ市民会館のホールの装飾等も手がけています。


第一次世界大戦後、ハプスブルク家が支配するオーストリア帝国の崩壊により、チェコスロヴァキア共和国が1918年に成立し、新しい時代に突き進み始めます。ミュシャは、作品を描きながら自身のスラヴ人としてのアイデンティティを再確認し、民族愛や愛国心を高めていきます。その思いが一連の大作として結実した作品が、《スラヴ叙事詩》です。さらに、新しい共和国のために、無報酬で紙幣や切手などのデザイン制作を請け負っており、ミュシャ愛国心が偲ばれます。


1939年、祖国独立のわずか20年後、プラハに侵入してきたドイツ軍によって逮捕されたミュシャは、健康を害し、2度目の大戦前夜に78才の生涯を閉じました。本展に出品される《スラヴ叙事詩》の習作や、未完の人類への記念碑、《理性の時代》、《叡智の時代》、《愛の時代》の習作からは、ミュシャが最期に思い描いた民族愛や平和へのメッセージを読み取ることができるでしょう。

ミュシャの生まれ故郷、
イヴァンチッツェの風景


スラヴ叙事詩
《スラヴ菩提樹の下で宣誓するオムランディーナの若者たち》のための習作
1860 年代後半
(C)Mucha Trust 2013




お問合わせ TEL
03-5777-8600 (ハローダイヤル)


主催 ミュシャ財団、日本テレビ放送網、森アーツセンター

後援 チェコ共和国大使館


特別協賛 木下工務店
協賛 大日本印刷日本興亜損保
協力 全日本空輸、KLMオランダ航空、日本通運JR東日本BS日テレシーエス日本
ラジオ日本、J-WAVE、InterFM、文化放送テレビ神奈川
企画協力 NTVヨーロッパ