小島一郎 - 北を撮る - 戦後の青森が生んだ写真界の 「ミレー」
孤高のフィルム 写真家・小島一郎の津軽
高度経済成長まっただ中の昭和30年代、人やものが中央へ流れ、日本中の目が東京へ向けられる中、青森を撮影し続けた写真家がいる。
小島一郎(1924〜1964)は、津軽地方や下北半島をくまなく歩き、土地に根ざして生きる人々の姿をフィルムに収めた。津軽平野の叙情的な農村風景。本州最北端、大間の寒風吹きすさぶ漁村の風景。そこには地域特有の風土が写し出されている。厳しい自然とともに生きる人々の営みを記録するため、地吹雪の日を狙うなど、小島の撮影は過酷さを増していく。撮影地が北上するにつれ、作品はコントラストの高い荒々しいものへと変化していった。
中央への反発を強めるように北へ向かった小島だったが、作品が評価され始めると、写真家として東京で活躍することを夢見るようになっていく。地方と中央のはざまで揺れる小島は、悲壮な決意を胸に上京するが、東京で待っていたのは挫折と絶望の日々だった。
状況を打開するため再び北へと向かう小島だったが、過酷な撮影行を続けた代償は大きく、39歳の若さで急逝する。
番組では、小島の足取りをたどり、小島一郎の写真が半世紀を超えて、今私たちに何を語りかけるのかを探る。
青森、昭和30年代、北を撮り続けた写真家の熱く短い生涯
戦後、国産カメラの普及やフォトジャーナリズムの発展を背景にアマチュアの写真熱が高まった写真界において、生まれ故郷、青森を被写体とし、鮮烈な足跡を残した一人の写真家がいました。
小島一郎。大正13 (1924) 年、青森市大町で、玩具と写真材料を扱う商店の長男として生まれた小島は、青森県立商業学校 (現:青森県立青森商業高等学校) を卒業後、出征。戦後の混乱期を経て、昭和29年頃から本格的に写真を始めます。
津軽の農家の庭先や雪原の一本道といった平凡な題材から、日常を超えたイメージを生み出す突出した造形感覚と確かな技巧は、日本の報道写真の先駆者、名取洋之助に見出され、早くから東京で紹介されました。
昭和36年には、プロのカメラマンを目指し上京。同年に発表した『下北の荒海』でカメラ芸術新人賞を受賞し、その後の活躍が期待されます。しかし、郷土を題材とした写真で世に出た小島にとって、住み慣れぬ土地で新境地を切り開くのは、想像以上に難しいことでした。募る焦燥感の中、東京での仕事の不振から脱け出すべく、北海道の四季の撮影を決意。昭和38年冬、現地に赴きますが、撮影は難航します。繰り返される過酷な撮影行に、体調を崩した小島は、期待した成果を得る事なく青森に戻り、体力の回復を待ちながら写真の仕事を続けますが、昭和39年7月、39歳の若さで急逝しました。
津軽の猛烈な地吹雪の中、角巻きをまとい黙々と歩く農婦。寒風吹きすさぶ下北の浜辺で、必死に船を引き揚げる漁師。青森という土地へ生きる人々への深い共感を、覆い焼きや複写の技法を駆使しながら、印画紙に刷り込むようにして力強く焼きつけた写真の数々は、その早すぎる死の後も、展覧会や写真雑誌で取り上げられ、再評価の波は絶えることがありませんでした。
本展では、その濃密な生涯をリアルに立ち上げるさまざまな資料とともに、約200点の珠玉のオリジナルプリントを展示。今なお多くの人をひきつけてやまない小島一郎の強烈な個性に迫る初の大規模な回顧展です。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/index.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B3%B6%E4%B8%80%E9%83%8E
開館時間 9:30 - 17:00 (入館は16:30まで)
フォト・ギャラリー・インターナショナル、株式会社堀内カラー
財団法人ポーラ美術振興財団、財団法人野村国際文化財団
青森県写真連盟、北陽会
特別顧問 小島弘子、鎌田清衛
お問い合わせ
〒038-0021
青森市安田字近野185
Tel 017-783-5241 / 017-783-3000
Fax 017-783-5244
『小島一郎写真集成』
青森県立美術館=監修
B5変型判上製244頁
写真:ダブルトーン178点、カラー6点
定価:本体3,800円+税
ISBN978-4-900997-23-3
第26回写真の町東川賞 飛彈野数右衛門賞(2010年)[審査員=平野啓一郎、浅葉克己ほか]
第21回写真の会賞(2009年)
- 作者: 青森県立美術館
- 出版社/メーカー: インスクリプト
- 発売日: 2009/01/01
- メディア: 大型本
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