Artscene 芸術の風景 -アートシーン 展覧会情報

芸術、美術、展覧会の紹介をしています。

野見山暁治展

artscene2011-11-12


2011年10月28日(金)-2011年12月25日(日)


http://www.bridgestone-museum.gr.jp/exhibitions/



 昨年90歳を迎えた野見山暁治。日本洋画界において、最も長く活動を続けてきた画家の一人である。絵を描くことへの情熱が衰える事はなく、現在も新たな境地を見出すべく活発な創作活動を続けている。


 鮮やかな色彩と大胆な筆遣いによる独特の表現は、みずみずしく軽やかで同時に骨太な力強さがある。その底にどこか謎めいた不思議なものの気配が漂い、心象風景とも感じさせるその作風が多くの人々の心を魅了している。


 ブリヂストン美術館は、野見山が滞欧中の1958年に、早くも彼を紹介する展覧会を開催し、それは第2回安井賞を受賞するきっかけとなった。この展覧会から半世紀を経て開催される本展では、戦前の作品から、戦後の12年近いヨーロッパ滞在を経て現在に至るまで、野見山の自由奔放でエネルギーに溢れた絵画世界が形成されていくプロセスと、さらに表現の幅を広げようとする画家の姿勢を展観。


 代表作や初公開となる作品など、総数約110点。



野見山暁治略歴


1920年 福岡県穂波村(現 飯塚市)に生まれる
1943年 東京美術学校油画科を卒業とともに応召
1952年 渡欧 12年間を過ごす
1958年 安井賞受賞
1968年 東京藝術大学に勤務 以後81年まで
1978年 日本エッセイスト・クラブ賞受賞
1996年 毎日芸術賞受賞
2000年 文化功労者に選ばれる


 
 入館料
  
 一般 1,000円
 シニア(65歳以上)800円
 大学・高校生   700円
 中学生以下無料

 15人以上の団体は200円割引
 
 障害者手帳をお持ちの方と同伴者の方2名様まで半額となります。

 休館日月曜日 (祝日の場合は翌日)

 開館時間 10:00-18:00

※入館は閉館の30分前まで


ブリヂストン美術館 

〒104-0031 
東京都中央区京橋1丁目10番1号

東京駅(八重洲中央口) より徒歩5分
東京メトロ銀座線 京橋駅(6番出口/明治屋口) から徒歩5分
東京メトロ銀座線・東京メトロ東西線・都営浅草線 日本橋駅(B1出口/高島屋口)から徒歩5分





展覧会のみどころ

第1章 不安から覚醒へ―戦前から戦後にかけて
子供のころからやたら手を動かして、いろんな形をさまざまな色で塗ってゆくのが嬉しかった、という野見山暁治は、画家になる夢を抱いて東京美術学校に入学します。アカデミックな教育に馴染めなかった野見山は、画集や雑誌で知った佐伯祐三萬鉄五郎らを通してフォーヴィスムに強い関心を抱くようになりました。しかし、初めてつかんだ絵を描くことへの手応えは、戦争によって中断を強いられました。
 敗戦の虚脱感の中にいた野見山は、今西中通との出会いによって、セザンヌキュビスム理解に導かれ、骸骨や静物を描きます。そして、エル・グレコの《トレド風景》の画面の中に「情念のキュビスム」を感じ取り、それは自分の故郷の炭坑にも共通するものであることを発見しました。
終戦後の不安と荒廃の中で立ち上がろうとした野見山は、生命感溢れるみずみずしい自然ではなく、「敗戦の残骸そのもの」のようなボタ山という、人工的に造り出され、壮大な廃棄物になろうとしている無機的な自然の姿に、再生の拠り所を見出したのです。



第2章 形をつかむ―滞欧時代
1952年末、野見山はフランス政府私費留学生として渡仏します。日本にいた時とは色彩感覚が変わり、まるでフォーヴ的ともいうべき鮮烈な赤、黄、青、緑が使われて、筆遣いには自由さや闊達な力強さが現れます。
 滞在3年目にようやく妻の陽子を日本から呼び寄せ、順調に見えたパリでの2人の生活は、陽子が癌のため急逝したことであっけなく終わりました。
大きな喪失感から彼を救ったのは、高田博厚から譲り受けたアトリエの前に広がる、パリ郊外のライ・レ・ローズの丘陵でした。毎日のようにその丘を描くうちに、野見山は自分なりに西洋の造形感覚、立体感や量感をつかみ取ります。そして野見山がパリ滞在中の1958年9月に、ブリヂストン美術館で開催された個展は注目され、新聞や雑誌に展評が載り、《岩上の人》の第2回安井賞受賞に繋がっていきました。
しかしやがて野見山は、自分の中の東洋に行き当たります。中国宋時代の山水画に、合理的に構築された西洋の絵画にはない「深淵」を見出したことがきっかけでした。目に見える現象の奥に潜むものの気配をつかみ取りたいと、自然の姿を再現するのではなく、自然の本質が持つ形に、さらに深く踏み込もうと描けば描くほど、彼の画面からは具象性が失われていきました。けれども彼の個展を2度開いたパリの画廊は、それを理解してはくれませんでした。野見山はパリを離れ、スペインに10ヶ月程滞在した後帰国を決意します。




第3章 自然の本質を突きつめる―90年代まで
西洋の真似をしても意味がない、自分が生まれ育った土地にしっかり根を下ろすことだ、と考えての帰国でしたが、12年の滞欧生活で西洋の徹底した個人主義と合理主義を身につけていた野見山は、言葉のニュアンスや考え方、習慣のズレに戸惑ううちに、感覚が狂ってスランプに陥ります。やがて日本での暮らしに馴染むうち、空や海などを思わせる広い空間の中を、何か得体の知れないものがゆっくりと捻れながら動くような、不思議な雰囲気に満たされた心象風景ともいうべき作品が描かれるようになります。
70年代初頭の野見山は、これまでと異なった制作方法で描くようになりました。枯れ木や雑草や、旧陸軍のつぶれた水筒、古いバレエの衣裳の山といったものをアトリエに集めては、克明にデッサンするよう になります。それらのデッサンを基にして油彩を描くと、水筒は異様な風貌の人間の顔に、古びた衣裳は丘や山などの幻想的な風景に変貌していくのです。野見山の豊かな想像力による、思いも寄らないイメージの転換です。
 76年に唐津湾を望む糸島半島の岬にアトリエを建ててからは、また制作方法に変化が見え始めます。視界いっぱいに海と空が広がって、正面に姫島が見えるバルコニーからの景色に、野見山は魅了されて描きます。しかし、自然は突如として恐ろしい正体をむき出しました。ある夏、台風の暴風雨がアトリエを襲い、バルコニーにあった大きな甕をきりきりと宙に舞いあげるのを彼は目撃します。次の瞬間、甕が弾け飛び粉々になったのを見た野見山は、自然の奥に潜むデーモンの気配を察しました。それ以来彼は、ますます見せかけの現実の底にあるものを引っ張り出そうと躍起になり、彼の作品は急速に抽象化が進んでいきました。野見山は語ります「すべての景色はうつろうものだ。今ある形は束の間のことだ。魔性を孕んでいるものは美しい」。





第4章 響きあう色彩―新作をめぐって
2000年代に入ると色彩は鮮やかさを増して、明るく華やかになっていきますが、描かれているものはますます抽象的になり、一体何が描かれているのか分からなくなります。しかしこれまでは、みずみずしい生命感を感じさせるようなメインの形象が、画面の中央部に集中的に描かれて、圧倒的な存在感を示していたのに対して、ここ数年では形にこだわるのではなく、色彩そのものの効果によって画面を自由に作り始めたような印象を受ける作品が現れてきました。
 「形」と「色」の関係と言えば、古典主義は、形態の把握を基本とすることによって、普遍的な理想の美に到達できると考えて、色彩よりもデッサンを重視したのに対して、個性的な美を求めたロマン主義は、感覚に直接訴える色彩を重視したという解説が思い出されます。形をとらえるデッサンが理性の象徴であり、色彩は感覚の象徴であるならば、近年の野見山は、もう画面の構成や形態などといった面倒から解放されて、ますます若々しい感性を手に入れているのでしょうか。
 野見山の70余年にわたる画業を振り返ると、ある時期に時間をかけてスタイルや方法を築いた後に、必ずと言っていいほど変化が訪れることに気付かされます。それは、野見山暁治という画家が、積み上げてきたものに満足せずに、常に新しい可能性を求めて挑戦を続けているからでしょう。だから、彼の画面には、いつも新鮮さと力強いエネルギーとがみなぎっているのです。